マリーアントワネットの生涯で見る世界遺産
世界遺産プラス編集部
2018年07月29日

運命に翻弄されたマリー・アントワネットは様々な観点から語られ、描かれています。
ファッション、発言、振る舞い、そして一人の女性として・・・。
ここでは世界遺産から見るマリー・アントワネットの軌跡を辿りまとめてみました。
マリー・アントワネットは世界遺産で始まり、そしてその生涯を閉じた場所もまた世界遺産でした。・・・それでは見てみましょう。
  • ウィーン歴史地区

    音楽の都として表現されるウィーン歴史地区は、王家ハプスブルク家の支配の下で城塞都市として発展し、現在も街の至る場所にハプスブルク家の史跡があります。
  • シェーンブルン宮殿と庭園群

    マリー・アントニーア(マリー・アントワネット)が誕生し幼少期を過ごした「美しい泉」という意味を持つシェーンブルン。
    ウィーン会議の舞踏会場になった大広間、6歳のモーツァルトが御前演奏を行った鏡の間など数々の歴史の舞台でもあり、
    幼いモーツァルトが宮廷中を走り廻り、転んだ時にマリーが助け起こした事がきっかけで 「大きくなったらあなたと結婚してあげる」と言った逸話もあります。
    マリーアントワネットは幼い頃からこの場所で、バレエやオペラに親しみ音楽や芸術を愛し育ちました。
    陶板に焼き付けた絵が何枚も壁一面に飾られた部屋には、マリーが書いた絵も飾られています。
  • ヴァッハウ渓谷の文化的景観

    14歳の時に後のルイ16世の元へ嫁ぐ為に約25日間にも渡りガラスの馬車に乗りウィーンからフランスへと旅立ちました。
    道中のオーストリア中部にある古い歴史を誇る壮大なメルク修道院は、マリーがフランスへのお輿入れの際立ち寄った場所の一つ。
    ウィーンを離れた最初の夜をここメルクの修道院で過ごし、その際には先回りしていた長兄・ヨーゼフⅡ世が出迎えてくれたのです。
  • ストラスブールの旧市街:グラン・ディルからヌースタット

    ドイツとの国境にあるこの場所は、マリーがフランスで最初に訪れた街でした。
    ライン河の中洲に建てられた女王メディアの館で「皇女引き渡しの儀」が行われ、オーストリアから所有してきたものを全てここに残さなければならなかったのです。
    フランスの衣装に着替え、名前もマリー・アントニーアからフランス名のマリー・アントワネットと改められました。
    そしてマリー・アントワネットとして最初に見た景色は、ドイツの影響を強く受けたストラスブールの街です。
    ストラスブールの街を進む道中は木組みのドイツ風建築の窓には織物が掛けられ、道には薔薇は並べ、歓迎の意が表されました。
    マリー・アントワネットはフランスでの最初の一夜をロアン司教の宮殿(ロアン宮)で過ごす事になります。
    ここはヴェルサイユ宮殿の礼拝堂を手がけた王室設計技師ロベール・ド・コットの設計であり、宮殿と同じくアパルトマン形式(続き形式)。その優雅な佇まいはロココ様式の傑作とも言われています。現在でもマリー・アントワネットが宿泊した部屋はその当時のまま保存されています。
  • ヴェルサイユ宮殿と庭園

    そして歓迎は続きます。セーヌ河岸シテ島のノートルダム大聖堂の鐘が鳴り響き、街全体がマリー・アントワネットを出迎えました。

    マリー・アントワネット14歳。
    ヴェルサイユ宮殿に到着して間もなく、1770年5月16日に宮殿内の礼拝堂にてダイヤモンドと真珠で装飾されたドレスを身にまとい6000人以上の参列者に見守られ婚礼の儀式が執り行われました。
    こうしてマリー・アントワネットのヴェルサイユ宮殿での生活は幕を開けたのです。
    しかし宮殿での生活は規則正しく、また馴染みのないしきたり、何より王族の権威を人々に示すために全て公開された生活。自由奔放に育ったマリー・アントワネットは次第に窮屈を覚えるようになっていきました。
    そんなマリー・アントワネットのためにルイ16世がプレゼントしたのがアントワネット専用の宮殿「プティ・トリアノン」。
    可愛らしい調度品、好きな人々に囲まれ、マリー・アントワネットはここでの生活や贅を尽くしたオシャレをする事を楽しみ、そして没頭したのです。
    しかしこの贅沢な生活が国費で賄われてた為に民衆を怒らせ、後のフランス革命を引き起こしてしまう原因にもなりました。
    1789年7月14日。王政に対する民衆の不満が爆発しフランス革命が勃発。
    ついにはパンを求めて飢えた民衆がヴェルサイユ宮殿目指して行進を始めました。
    その翌日、プティ・トリアノンを散策していたマリー・アントワネットの元に、パリから民衆が武器を持って向っていると伝えられ急いでヴェルサイユ宮殿に向かいました。
    これを最期にマリー・アントワネットがプティ・トリアノンに戻ることはなかったのです。
    結果囚われ、一時はパリのテュイルリー宮殿に身柄を移され生活を送りましたが、タンプル塔を経てコンシェルジュリーへ収容されました。
    この間夫ルイ16世が死刑が執行され、息子ルイ・シャルルがルイ17世としての即位しました。
  • パリのセーヌ河岸

    フランス革命反対派の政治犯達が大勢収容され「最も過酷な牢獄」として恐れられていたコンシェルジュリー。
    マリーアントワネットは囚人番号囚人番号280として投獄され2ヵ月半過ごした後に、コンコルド広場にてギロチンで処刑されました。
    その直前に死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に「お赦しくださいねムッシュウ。わざとではありませんのよ。Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l’ai pas fait exprès 」と発し、この言葉は今でも名言として受け継がれています。
    そして「子供達よ、あなた達のお父様の処に行きます」。これが王妃マリー・アントワネット37歳。最後の言葉でした。
    奇しくも同じシテ島にはマリーアントワネットの歓迎する為に街中に鐘を響かせたノートルダム大聖堂も建っています。




    いかがだったでしょうか。
    世界遺産で見る、数奇な運命に翻弄され混沌の時代を生きたマリー・アントワネットの生涯。
    フランス革命中に破壊された鐘は現在10個全て修復され、マリーアントワネットが初めてフランスに訪れた時と同じ鐘の音を今も響かせています。